「人が採用できずに廃業」「離職が止まらず現場が疲弊する」——医療業界に限らず、多くの組織がこうした人材の悪循環に苦しんでいます。忙しいから人が辞め、人が辞めるからさらに忙しくなり、その穴を埋めるために採用を急ぎ、ミスマッチが起きてまた辞める。この繰り返しに心当たりのある経営者や人事担当の方は少なくないはずです。
この記事では、岐阜県で在宅医療クリニックを16年間運営し、離職率を年間2.5%程度に抑えている一橋氏の組織づくりを、beyond globalグループ President & CEOの森田英一との対談から解説します。結論から言えば、この低離職率は個人の頑張りではなく「構造」によって生まれています。大きな黒字を目指さず「ちょい黒」に設定し、人的資源を仕事より少し多めに保つ。この出発点の違いが、すべての好循環を生み出しているのです。
現象のメカニズム:なぜ組織は「採用の悪循環」に陥るのか
多くの組織で採用がうまくいかない最大の原因は、外ではなく内側にあります。「今すぐ人が足りない」という追い込まれたマインドで採用に臨む限り、いい採用にはなりません。焦りから、懸念があっても「経歴はいいし、とりあえず入れてしまえ」と判断し、結果として「やっぱりだった」となるのです。
この悪循環は連鎖します。人が辞めると、残ったメンバーが「人が入らないなら私も辞めます」と考え始め、さらに退職が加速します。急いで採用してトラブルが起き、また辞める。仕事量が人的資源を上回っている状態が続く限り、この構造から抜け出せません。
一橋氏のクリニックでも、創業4〜5年目に16人規模で離職が起き、退職者の40〜50%が4年目・5年目・6年目に集中した時期がありました。人が辞めた直後にさらに退職の連鎖が起き、急いで採用してトラブルになる、という典型的な悪循環も経験しています。この経験からの内省が、組織構造の根本的な転換につながっています。
採用の失敗を振り返ると、多くの場合スキルは十分でもカルチャーフィットに不安がある人を、忙しさに追われて「とりあえず入れてしまう」ことが原因でした。数回の面接で短時間話しただけでは、理念の共有もカルチャーの見極めも十分にできません。短期的に採用してすぐ辞められると、広告費も面接時間も新人教育の時間も、すべてが無駄になってしまいます。
全体像を示す方程式:紹介料が売上に与えるインパクト
採用を紹介会社に頼ることのコストは、売上換算で考えると明確になります。利益率が低い企業ほど、紹介料1件が事業に与える打撃は大きくなります。下の表は、紹介料を賄うために必要な売上を利益率別に計算したものです。
| 紹介料 | 利益率10%の場合に必要な売上 | 利益率8%の場合に必要な売上 |
|---|---|---|
| 100万円 | 1,000万円 | 1,250万円 |
| 200万円 | 2,000万円 | 2,500万円 |
| 300万円 | 3,000万円 | 3,750万円 |
看護師の紹介料は年収の35%程度、上の層になると50%程度が相場です。利益率10%の会社が100万円の紹介料を払うと、それを取り戻すために1,000万円の売上が必要になります。だからこそ、紹介会社の利用は「最初の手段」ではなく「最後の手段」なのです。
一橋氏のクリニックは、他クリニックと同じ診療報酬の枠組みで運営しているため、基本的には差がつきません。唯一差をつけられるのが「採用コストがゼロ」であること。この一点が、教育費や社員還元の原資を生み出しています。
一般的な企業の利益率は8%程度と言われます。仮に利益率8%の会社が200万円の紹介料を払えば、それを取り戻すために2,500万円の売上が必要になります。自分たちの売上の相当部分を、ただの紹介だけに食われてしまう構造です。だからこそ、まず自分たちを知ってもらい、コミュニケーションを取れる場を作ることに時間と投資を振り向ける方が合理的なのです。
背景にある心理:内発的動機と3種類の報酬
知識労働者を動かすのは金銭だけではありません。一橋氏は報酬を3種類に分けて捉えています。1つ目は金銭的な報酬、2つ目はトレーニングを受けて成長できる「成長報酬」、3つ目は自分の裁量権があるという「裁量の報酬」です。この3種類を最大化することが、内発的動機の源泉になります。
そして内発的動機を引き出す最大の前提は「指示しないこと」です。アントレプレナー的な人ほど、指示されるとやる気を失います。「勉強したら」と言われた瞬間、やろうと思っていたこともやりたくなくなる。プロフェッショナルには何も言わない環境こそが、自発性を引き出します。
そのために入り口を厳しく絞り、ルールなしでは動けない人を中に入れない。一度入った人には権限を大きく渡し、細かいチェックをしなくても済むようにする。プロ野球選手に「1日8時間練習しろ」と言わないのと同じ考え方です。プロには、戦略的に練習量を判断する裁量がある。同様に、プロフェッショナルとして採用した人には、細かい指示をしない方がパフォーマンスが上がります。
この考え方の根底には、ドラッカーの「リーダーの定義はフォロワーがいること」という原理があります。すごい人を育ててもリーダーになるわけではなく、フォロワーがつけばリーダーになる。だから組織がやるべきは、やりたいことを持つ人にアクティブなフォロワーをつけることです。フォロワーがたくさんつけばリーダーが多く生まれ、事業も多く生まれます。
離職を防ぐ組織づくり9選
一橋氏のクリニックが年間2.5%程度という低離職率を実現している要素を、以下の9つに整理しました。それぞれをH3で解説します。
| No. | 要素 | ねらい |
|---|---|---|
| 1 | 「ちょい黒」の目標設定 | 持続可能性の確保と未来投資の原資づくり |
| 2 | 人的資源のダム経営 | 余力を持たせて突発的な欠員に備える |
| 3 | 研修生の受け入れ | 採用の母集団形成と非課税売上の獲得 |
| 4 | 採用のウェイティングリスト | 「取りたくないが取る」採用の実現 |
| 5 | 全員面接・アフリカの部族ルール | カルチャーフィットの徹底 |
| 6 | 理念ブックとストーリーの共有 | 共感による定着 |
| 7 | 健康第一・家族第二・仕事第三 | 持続可能な働き方 |
| 8 | ワークシェアと週1〜週5の勤務体系 | チームの安定と柔軟性 |
| 9 | プロデューサー職の設置 | 内発的動機の実行支援 |
「ちょい黒」の目標設定
出発点は「すごい黒字」ではなく「ちょっとだけ黒字」です。大きな黒字を取ろうとすると、全員に高回転で無理に働いてもらう必要が生じます。それは短距離走では成立しても、10年15年という長距離走では持続しません。赤字では存続できないため、長期的にゆっくり大きくなりながら常にちょい黒を目指す、という設定にしています。
ちょい黒にすると、未来への投資が少しだけ多くできるようになります。現状を朝から晩まで働いて研修生を誰も取らなければ利益は最大化しますが、未来の種は蒔けません。目先の利益を抑えることが、長期の利益を大きくする逆説がここにあります。一橋氏は、未来にかける時間の配分を全体の約23%、現在の業務を約78%程度と捉えており、この「遊び」の部分が組織の成長を支えています。
人的資源のダム経営
松下幸之助のダム経営を、お金ではなく人的資源に応用した考え方です。稼働を10割で走らせず、人を少し多めにして、あえて仕事のない状態もあり得るようにします。余った人的資源は、未来のリクルートやイベントに充てます。
この余裕は無駄には終わりません。インフルエンザやコロナで誰かが休むと、結果的にちょうどぴったりの人員になります。余裕だと思っていた分が、突発的な欠員のバッファーとして機能するのです。
研修生の受け入れ
年間300人を目標として、研修生を受け入れています。「クリニックには本来、大きな建物はいらない」にもかかわらず、薪ストーブまである施設をあえて作ったのは、研修生を受け入れて採用の母集団を形成するためです。約20人が来ると1人が「働きたい」となる計算です。
研修生への対応にはもう一つの経済合理性があります。研修生1人あたりに使える予算は、紹介料と受け入れ人数から逆算できます。紹介料100万円・20人に1人採用なら、1人あたり5万円の予算があることになります。この範囲で丁寧にケアすれば、それは課税されない未来への売上としてカウントできるのです。
採用のウェイティングリスト
常に「入りたいけれど待ってもらっている」人がいる状態を作ります。ポジションが開いたときに「そろそろどうですか」と声をかけると、待っていた人が入る。これにより「取りたくない環境にいながら、どうしても一緒に働きたいから取る」という理想の採用が実現します。
実際、次の4月に入る人がすでに決まっており、翌年の枠も埋まっている状態です。募集が多く来るため「本当はもう取りたくない」という贅沢な悩みが生まれます。この状態こそが、最も質の高い採用を可能にします。
全員面接・アフリカの部族ルール
採用は全員面接で行い、1人でも反対したら落とすというルールを設けています。これは、旅人が村に入りたいと言ったとき村人全員がオッケーと言えば入れる、というアフリカの部族の慣習に着想を得たものです。人数が増えると運用は大変ですが、入り口を厳しくすることに意味があります。
入り口を厳しくする代わりに、一度入った人には権限を多く渡します。いろんなチェックをしなくても済む人だけを、エントリーの段階で絞り込む。看護師採用では応募者の半分が落ちる、約2倍の応募がある状態です。
理念ブックとストーリーの共有
ただ知ってもらうだけでは他組織と変わりません。開業8年目に、理念に関する物語を「患者さんとの物語」「働く人の物語」「建物の物語」の3部構成でまとめた理念ブックを作成し、研修に来た人全員に配っています。合宿で思い出のストーリーを出し合い、整えて形にしたものです。
人は「何のためにやっているのか」「その背景にある物語は何か」に共感します。「なぜここでなければならないのか」というストーリーを持てる人ほど、最初から「ここで働きたい」という強い動機を持って入ってきます。
健康第一・家族第二・仕事第三
働く人への優先順位を「健康第一、家族第二、仕事第三」と明示しています。健康でなければ持続可能ではなく、家族がトラブルを抱えていればパフォーマンスは落ちる。子育ての期間は15年ほどで終わってしまうため、その時期を大切にした方がいい、という考え方です。
この優先順位を言語化するだけで、「風邪で休みます」に対して「いいよ、うちではそれが普通だから」と言える文化が生まれます。今働いている場所とのギャップが、人を惹きつける要素にもなります。
ワークシェアと週1〜週5の勤務体系
勤務は週1から週5まで揃えています。常勤を前提にせず、週4ベースにしておくことでバッファーを持たせ、本当に苦しくなったら「もう1日来てもらえますか」とお願いする形です。なるべく多くの人に仕事がシェアされている状態の方が、チームとして安定します。
常勤が突然抜けるリスクと、週4の人が抜けるリスクでは、チームへのインパクトが違います。ロジカルに考えれば、ワークシェアされている状態の方が組織のリスク分散になるのです。
プロデューサー職の設置
医療のプロフェッショナルではないものの、プロジェクトを動かせる「プロデューサー」という職種を置いています。2012年に「未来担当」として設置されたのが起源で、医療者が現在を、医療事務が過去を担当するのに対し、プロデューサーが未来を担当します。
スタッフが「こういうことをやりたい」と言うと、プロデューサーがゴール設定・締め切り・予算・発表の場などのプロジェクトの骨格を整え、実行を支援します。1人目はリクルート出身のプロジェクトマネージャー、2人目は人事系、3人目は銀行出身と、それぞれ異なる専門性を持っています。医療のプロフェッショナルは日々忙しく、アイデアはあっても実動する時間がありません。プロデューサーがフォロワーとして支えることで、そのアイデアが形になります。
具体的な成果も生まれています。終末期の患者が食べられず家族との間に葛藤が生じるという課題に対し、説明用の冊子を作るプロジェクトが、財団への応募と学会発表につながりました。ほかにも、亡くなった患者のペットを保護する活動、250人が訪れる子ども食堂、認知症家族の相談窓口など、スタッフの内発的な思いがプロデューサーの支援で次々と事業化されています。
解決策・打ち手
悪循環にある組織が好循環へ転換するための、具体的な打ち手を解説します。
積極的な赤字を2年間許容する
現状が悪循環で仕事が人的資源を上回っている場合、まず仕事を少し減らし、人的資源の方を大きくします。この部分は赤字を許容し、向こう2年間は積極的な赤字にすると決めます。その代わり社員満足度を上げ、無理をなくし、採用のウェイティングリストを作る。潰れなければいいという発想で、未来に投資します。
いい人材が来たら業容を増やす
売上ベースで必要人数を決めて人を当てはめるのではなく、いい人材と出会えたときに業容を増やす、という順序にします。いい人材こそがボトルネックだからです。結果として成長スピードは同じでも、人ありきで組織を設計することで定着率が変わります。
採用のフィーを教育費・還元に回す
採用コストをゼロにできれば、その原資を教育や社員還元に回せます。実際、常勤で年間20万円、非常勤で年間10万円の教育予算を設定し、好きな学会やセミナーに使えるようにしています。辞めない前提があるからこそ、教育投資が無駄になりません。
ルールをなるべく少なくする
最終的な組織のあり方は「ルールをなるべく少なくする」ことです。プロフェッショナルはルールが少ないほどパフォーマンスが出ます。ルールが多いと、その制約の中での最適化しか考えなくなるからです。そのためにはチームを小さく維持し、自由に動けるようにしながら十分な資源を渡しておく。ルールなしでは動けない人を入り口で入れないことが、この前提を担保します。知識労働者に対しては、これが最も大切な原則だと言えます。
明日から着手する順番
- 自社の利益率と紹介料から「採用1件が必要とする売上」を計算し、採用コストの重さを数値で把握する。
- 目標設定を「大きな黒字」から「ちょい黒」に見直し、未来投資に回せる原資を確保する。
- 働く人への優先順位(健康・家族・仕事)を言語化し、勉強会などで繰り返し共有する。
- 人的資源を仕事より少し多めに保つ「ダム経営」を導入し、余力を未来の活動に充てる。
- 研修生や見学者を受け入れる仕組みを作り、採用の母集団を育てる。
- 全員面接など、カルチャーフィットを重視した採用ルールを設ける。
- スタッフの「やりたい」を実行支援するプロデューサー的な役割を置く。
よくある質問
離職率2.5%とはどれくらい低いのですか?
16年間で約16人しか辞めていない水準です。医療業界は離職が多く廃業も相次ぐ中、驚異的な低さといえます。
なぜ「ちょい黒」を目指すのですか?
持続可能性のためです。大きな黒字は高回転の無理な労働を招き、10〜15年の長距離では続かないからです。
ちょい黒だと未来投資はできますか?
できます。利益を抑える分だけ未来への投資が少し多くでき、長期的にはむしろ利益が大きくなります。
紹介会社を使うと何が問題ですか?
売上への打撃が大きい点が問題です。利益率10%なら100万円の紹介料を賄うのに1,000万円の売上が必要です。
紹介会社は一切使わないのですか?
最後の手段と位置づけています。まず研修や場づくりに投資し、それでも足りない場合に限り利用する考え方です。
研修生を受け入れるメリットは何ですか?
採用の母集団形成です。約20人受け入れると1人が働きたいとなり、採用コストをかけずに人材を確保できます。
研修生1人にどこまで手間をかけていいですか?
紹介料と採用率から逆算します。紹介料100万円・20人に1人採用なら1人5万円の予算がある計算になります。
採用のウェイティングリストとは何ですか?
入りたいが待ってもらっている人の集団です。ポジションが空いたとき声をかけ、質の高い採用を実現します。
ウェイティングリストはどう作るのですか?
研修生の受け入れが起点です。見学が増え口コミが広がり応募につながる、という流れを施設で設計しています。
アフリカの部族ルールとは何ですか?
全員面接で1人でも反対したら落とす採用ルールです。村人全員の同意で旅人を迎える部族の慣習が由来です。
入り口を厳しくすると何が変わりますか?
入社後の自由度が上がります。ルールなしで動ける人だけを絞り込むため、細かいチェックが不要になります。
理念ブックはどんな内容ですか?
患者・働く人・建物の3部構成の物語です。開業8年目に合宿で作り、研修に来た人全員に配布しています。
健康第一・家族第二・仕事第三とは何ですか?
働く人への優先順位です。健康でないと持続せず、家族が安定しないとパフォーマンスが落ちるためこの順です。
ワークシェアの狙いは何ですか?
チームの安定です。常勤が抜けるより週4の人が抜ける方がインパクトが小さく、リスク分散になるためです。
週何日から働けますか?
週1から週5まで揃えています。週4ベースにしてバッファーを持たせ、必要時に追加勤務を依頼する形です。
プロデューサーとはどんな職種ですか?
未来を担当する非医療職です。2012年に設置され、スタッフのやりたいことを実行支援する役割を担います。
プロデューサーは具体的に何をしますか?
プロジェクトの骨格づくりです。ゴール・締め切り・予算・発表の場を整え、専門職の実行をサポートします。
悪循環の組織はどう転換できますか?
2年間の積極的赤字を許容します。仕事を減らし人的資源を上回らせ、未来投資に舵を切ることで好循環に転じます。
教育費が無駄にならないのはなぜですか?
辞めないからです。常勤で年間20万円などの教育予算も、長く働く前提があるため投資として回収できます。
この組織づくりは医療以外にも使えますか?
使えます。ちょい黒設定・ダム経営・内発的動機の支援は、知識労働者を抱えるあらゆる組織に応用できます。
まとめ
- 年間2.5%程度という低離職率は、個人の頑張りではなく「ちょい黒」を出発点とする構造から生まれています。
- 紹介会社は最後の手段とし、研修生の受け入れで採用の母集団を育て、採用コストをゼロに近づけています。
- 人的資源を仕事より少し多めに保つ「ダム経営」が、突発的な欠員への備えと未来投資を両立させます。
- 金銭・成長・裁量の3種類の報酬と「指示しない」環境が、内発的動機を引き出す土台になっています。
- プロデューサー職がスタッフの「やりたい」を実行に変え、多くのリーダーが生まれる組織を実現しています。
すべての施策は「採用のウェイティングリスト」という一つのキーワードでつながっています。まずは自社の利益率と紹介料から採用コストの重さを数値化し、目標を「ちょい黒」に見直すところから始めてみてください。
動画特典
この動画では、視聴者の皆さんに向けて特典をご用意しています。1つはドラッカーの著作を年代順にまとめ、その知識労働者論を100問100答の形式に整理した資料です。もう1つは、今回のエッセンスをまとめた「2026年 日本企業 組織開発のロードマップ」です。
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